過去を知り
今を記し
未来につなぐ
価値ある記録を
©2025 有限会社 札幌速記事務所
「はじめに」
私たちは日本人である。だから、日本語を正しく使えていると思っているが、実のところ、本当にそうであるのだろうか。
例えば、私は北海道生まれであり、自分が話している言葉に何の違和感を持つこともないままに暮らしてきた。しかし、年を重ねるにつれ、北海道以外の方と接する機会を持つことが多くなり、どうやら自分の話し方やイントネーションが標準的なものとは異なっているのだということに気がついた。
「○○弁」と冠がつくメジャーな方言のように明らかに違っていれば、はたまた、そもそも何を言っているのかも分からないような言し方なら別だっただろう。いや、もしかしたら自分が知らないだけで、北海道以外の人は私の話していることにそうした違和感を持っていたのかもしれない。つまり、自分視点で見た世界と他者から見た世界はまるで違うのだと理解する必要があり、そうして初めて日本語というのはとても面白く見えてくる。
これまで自分が当たり前のように使ってきた言葉は、実はまるで見当違いの可能性も大いにあり得るということだ。そして、それは自分だけではない。自分以外の周りの人がそうした表現をしているからといって油断もできない。なぜなら、私たちは日本人だから日本語を正しく使えているという何の根拠のもない自信があるからだ。
それに拍車をかけてバツが悪いのは国際化と称された英語教育の導入である。世の中ではグローバル化が叫ばれ、幼い頃からの英語教育が義務化された。さらには、創造力や思考力を養うというお題目の下、総合的な学習なども組み込まれている。確かに、これは悪いことではないし、今の時代に適していることとは思う。他方、そうしたカリキュラムによってか、国語の授業の時間は削られ、国語力は格段に落ちてしまったと思えてしまうときもある。
言葉に正解はないとはいうものの、私のように言葉に接する者としては寂しく思うこの頃であり、今後、このコラムではそうした私の嘆きのようなものを文章化しておくことで、いつの日にか、少しばかりかでも誰かの役に立つことを祈るものである。